忍術を使う人を忍者と呼びますが、忍術の起源には多くの説があり、他の武術のように始祖
などもはっきりしておりません。
一説には、聖徳太子に仕えた大伴細入という人物が、その働きから最初の忍者であるとも
いわれていますが、史料が少ないために伝説の域を脱せないのが現状で、伊賀の場合は、
鎌倉時代に荘園の中で発生した「悪党」に起源を求めるのが現実的です。
伊賀は奈良時代以降、東大寺や興福寺などの多くの荘園がありました。悪党とは、もともと
土着している地主のような人の中で、寺院や貴族の領地である荘園に対して反抗的な行動
をとった人達のことです。彼らは荘園領主に対して奇襲や撹乱などの戦法を駆使しました。
悪党の中には、修験道と関わりをもった者もおり、そこで山伏の戦法を学び、先達として各地
を巡る際に情報収集を行ったことも考えられます。
有名な百地氏も、もともとは悪党であった大江氏の一派といわれており、実際に大江氏の一族
が大峰山で修行したという記録が残っています。加えて伊賀周辺には、霊山や笠置山、赤目
四十八滝など修験に関わる地が多く、役行者信仰も盛んでした。
室町時代に入り、荘園を経営する寺社勢力が衰微するにつれて、悪党の活動は徐々に消失
していきますが、今度はその血を引いた「地侍」が頭角をあらわします。
戦国時代、彼らは古記録に「伊賀衆」として登場し、周辺各地の戦国大名に従軍して、傭兵
として京都や奈良、滋賀、和歌山へ出陣していたことがわかっており、その戦術は夜襲や
密かに忍び入り火を放つことが中心であると記されています。この頃より、伊賀衆は「忍び」
と呼ばれるようになります。
江戸時代、藤堂藩の治世になると、忍びと呼ばれた人々の子孫は「伊賀者」として、参勤交代
の際の藩主の護衛役や国内の情報収集にあたったり、または「無足人」という農兵として帯刀
を許され、各村の自治を任されたりしました。これらのことから、伊賀の忍者は誇り高き武士
であったと言えるでしょう。
このように伊賀流忍術の根本は、修験山伏の使った術が悪党や地侍へと引き継がれたもの
で、それが時代と共に変化し、江戸時代になって伝書にあるような広義の忍術としてまとめ
られたと考えられます。
俗に忍術の百科事典といわれる『萬川集海』を著した藤林氏も地侍の家系でしたが、江戸
時代になり、伊賀者として採用されてからは上野城下町に住まいを移しました。他に、商人
などに職を変えた忍びの末裔も、城下町には存在したとみられています。
先人の知恵の結晶である忍術伝書は、現在も伊賀の旧家では大切にしているところもあり、
苦難に満ちた時代を生き抜いた忍びの心を今の私達にも伝えています。
主要参考文献:久保文武『伊賀国無足人の研究』
新井孝重『中世悪党の研究』
黒井宏光『忍術教本』
『伊賀市史』第4巻 資料編 古代・中世 ほか