煙の末4
黒党祭
服部一族に限定、勢力示す
黒党祭が行われた敢国神社(上野市で)
昨年、450年ぶりに復活
かつて上野市の伊賀一の宮・敢国(あえくに)神社には、「黒党(くろんど)祭」と呼ばれる奇祭があった。伊賀忍者の頭領、服部一族の私的な祭だったとされる。
みこしを担ぐ神事に携わる者は、服部一族に限られ、それ以外の者が参加する場合には、服部の姓を臨時に与えられてから、参加が許された。全員、黒装束に身を固めるならわしだった。黒装束は忍者のふだん着ではない。伊賀忍者はクレ染めの濃紺の服を身につけていたからだ。祭りの際の特別のものだったと考えられている。現代の冠婚葬祭に黒い服を着るのと似ていておもしろい。
ほかに黒装束を集団で身に着けた者に、日本刀などをつくるタタラ師がいる。タタラ師の祭神は金山媛命(かなやまひめのみこと)。敢国神社にも祭られている。忍者のルーツを探る上での重要な手がかりが秘められているように思える。
祭りがいつごろ始まったのかは定かではない。最盛期の平安時代末の記録を見ると、十二月初めの卯(う)の日、神社のご神体を北東約1.5kmの柘植川の花園河原に移すことから始まる。ご神体の前で、流鏑馬(やぶさめ)や歌舞などの芸能を七日間通して奉納。仮設の大座敷に大勢の人を招待し、一般の観覧も自由だったという。大規模な祭りだったがゆえに、経済的な負担が重く、戦国初期にはすでに「苦労当祭」、つまり苦労に当たる祭りと皮肉られるようになった。服部一族の衰退とともに次第に途絶えがちになり、戦国時代末、自然に廃止された。この黒党祭、敢国神社の太郎館季幹宮司の熱意で、昨年(平成8年)、実に450年ぶりに復興された。